室蘭港が始まって以来の空前の大惨事とは!?

<K氏・提供写真画像により構成>

誰もが忘れ得ぬ、室蘭港の大災害それはノルウェー・タンカー「ヘイムバード号」が爆発炎上した空前の大惨事を思い出すであろう・・・・。1965年(昭40)5月23日の朝7時10分「原油」27,283KLを積載し室蘭港に入港着岸作業中、操船ミスで岸壁に衝突して、原油が流失、その直後に引火爆発をして、28日間にわたって燃え続けた。未曾有の大事故であった。

こうした事故を教訓にしてと思われるが、去る11月2日に【平成22 年度室蘭港 タンカー事故 対策訓練】と銘うって
防災の訓練が実施されていた。この模様を詳しく知りたい方は 下記の室蘭海上保安部のホームページにアクセスされてみて下さい「 室蘭地区排出油等災害対策協議会」
事務局・ 室蘭海上保安部警備救難課電話 0143(23)3132FAX 0143(25)2870
http://www.kaiho.mlit.go.jp/01kanku/muroran/muroranhaitaikyou/siryou/22kunnrennkekka.pdf

悔やまれる、過去!?夢見る未来!?いま在る現実になに思う


街作りに理想を抱いて見るとき、失われた自然の損失の大きさに想いを馳せ悔やんでみても、、、もう誰も元には戻せないし、過去に遡る時の長さが大きい程、誰も誰に対しても責任は問えない。母恋富士がかってこの風景の中に在った事も忘れてしまった。 自然の大切さを忘れて顧みようともしない人間に対しての自然からのしっぺ返しは大きいかもしれない・・・?
こうなるとは誰も思わない予測不可能・・誰もケガをしなかったがいつもそうとは限らない、此処は茶津山を切り通しの崖にした仏坂(ほとけざか)

測量山の山頂に何かを築くとしたら・・・・?パノラマに展開する俯角45度の眺望が欲しい


測量山の山頂に何を戴く・・?(写真の観音像は室蘭湾を望む場所に建っていたが、いまも遺っているかは不明、素材はプラスチック樹脂製のようだ)
  1977年(昭和52)7/15 に発刊された市史『室蘭のうつりかわり』の序文にホシケサンベ<雲より下りし山>と題して、絵鞆半島の成り立ちそして測量山の記述があるが、ホシケサンベはアイヌの人達による呼称として、松浦武四郎の説が紹介され北海道の名付け親として有名な、探険家としての彼の薦めに寄れば「ヲシケサンベは、この辺にてすこぶる風景よし。形、フジに似たる山なり。この上に観音にても安置してせば、おいおい参詣の人数もでき、上の辺りを踏みならし、開拓の一助となるべきに、」とある。ー後略ー・・・・しかし最近、厄介な構造物として遺され処分出来ずに困り果てている観音像が日本各地に有ることを知った。だからそんな偶像は望むべきではないが、だが然し、測量山を眺める景色の良い事は確かだと思う。いま話題の東京のスカイツリーを、我が街・ムロランにも欲しいところである。いま有る測量山のアンテナ群が地デジ化で無用となる様なら、それに置き換わる地デジのアンテナ塔を測量山の頂上に、その山容に相応しいデザインで下から眺めても良い形で、然もアンテナ塔の上に室蘭湾の美しい風景を一望するパノラマ展望台をも築いて貰えたら、落ち込んでいる経済も上向きになるかも。いやはやなんと既に地デジのアンテナは測量山に建っていた。その四角張ったアンテナを見てガッカリした。なんて無骨なんだろう風景に合わせるデザインの考慮も必要だと思う。ただ建築法的に構造力学が良ければどんなデザインでも構わないと言う訳ではないと思うのだが。

白鳥は白のイメージ、では白鳥大橋は??

拝啓、室蘭市民の皆様・・・・・白鳥大橋の足下にコール・センター(石炭の備蓄基地)は似合わないと思う!!。
今は昔、白鳥大橋完成する前に描いていたユメがあった!!室蘭港は1965年(昭和40)に国から、東北・北海道の中で初めて「特定重要港湾」の指定を受け、以来それに基づいて港湾整備事業が行われてきたと思うが・・現在では苫小牧港に押されて港湾としての重要度がドンドン下がってしまいフェリー会社も撤退するなどして室蘭市の街の経済の衰退と共に港の衰退ぶりも懸念される処である。
それは1985年(昭和60年)1月1日に描いていた未来えのユメ

(室蘭民報に載せていただいたイラスト)
室蘭市の行政の案内のホームページの画像に白鳥大橋の画像が美しく飾られデザインされているが、やはりコールセンターは場違いな気がする。折角の観光の目玉商品のような白鳥大橋の足元から、真っ黒い石炭の備蓄所「コールセンター」を移築出来たならとつくづく考えてしまう。工業都市室蘭としてはやむをえないのかもしれないが、これからの室蘭を観光に力を入れて発展を願うとしたらウォーターフロントの再開発のことが重要視されてくるに違いないだろう・・・・!!

街づくり貴方はドッチ、「道路・橋梁は、本なり,!!家屋・下水は末なり!!!」

[[「道路・橋梁は、本なり,!家屋・下水は末なり」]]この言葉は東京都の二代目の知事「芳川顕正」が云った言葉として紹介され、色々な処で街づくりの話の引き合いに出てくるが。本来、街づくりで重視しなければならないのは生活を優先に考えて”家屋・下水”の拡充と質の向上が先ではないかと思えるが、我が日本人は常に”道路・橋梁”を先に考えて来たのではと思われる、しかも其れが政治の駆け引きの道具にされて。従っていつまで経っても都市の住宅事情は貧相で美しさに欠け外国からウサギ小屋と揶揄された時もあった。此れからは「家屋・下水が本なり!!道路・橋梁は末なり!!」にして貰いたい。其の道路が都市再開発をする上で大いに利用するに値し、物事を進展させるのに合理的に考えられるかも知れない。何故なら・・・・・「道路」は何れの町・いずれの都市にも付随して在るが所有形態は大抵「国」や「道・県」又は「市」など行政側にあり、利用形態は共通していて「道路」は市民のモノ・皆の物的な共有している感覚でイチイチ誰かに許可を得る事もなく日常的に使われている場である。云わば共有の財産とも言える。都市を再開発する上で必要な住民と行政との合意形成が得やすい、更に必要なのは纏まった土地だが、然し何時までも自然の野や山を切り開いて破壊行為をする分けには行かない、其の点「道路」は直ぐに手に入る更地であり都市再開発のため利用を転換させて住民と行政とが話し合い、計画的に新しく住みやすい美しい町を築く事が出来る。「道路」は都市の再開発可能な土地と言える。隣接する旧市街地の住民が地上げによって居住権を奪われる事無く自分達の意思によって土地交換、居住権移転などを完了させて後、更に旧市街地を再開発整備して次の街区へと順次新しく都市を再生していく事が出来たらいいが、そんな簡単にトントン拍子に物事が上手く行く訳がないと誰もが思うだろう・・・。
だが現実に今「道路の」利用目的を転換させる話が進んでいた。それは「丸井DP」の跡地が「ヤマダ電機」に買い取られる事が決まったようだが、その時の条件として「丸井DP」跡地の間に挟まっている「市道」の廃止とその「道路用地」の払い下げを「ヤマダ電機」に要望されていて「市道」を含めて「丸井DP」跡地が一体のモノにする再開発計画が立てられている事だ。「市道」の廃止と「用途変更」は市議会で既に6月28日に承認されているそうだがこの意味を考えてみる。『今後、「道路用地」は周辺住民の利益を考えて「都市再開発」の為とする要望があれば「道路用地」の「用途変更」が出来ると言う事だろう』

更に昔に遡って見ると、*「輪西」の町の境界が現在の*「新日鉄工場」の敷地の中側に在った時があり町の一部が工場に挟まれサンドイッチの状態になっていた。当時の住民と工場を所有する会社側とが話し合われて境界が現在の「輪西町」と「新日鉄工場」との位置関係になった経緯がある。其の事からすると再び新日鉄工場側と町の人々が将来の街をどう築くかを話し合っても良いのでは、昔は「鉄の街」と呼ばれていた「輪西」の町の再生が渇望されていると思う。

中合わせに存在するイタンキ浜の断崖の美を街作りに取り込もう!!輪西町」「御幸町」と背中合わせに存在する断崖の美を街作りに取り込もう!!あの有名な建築家ガウディーはスペインに在るモンセラート修道院の背後に在る断崖の美に魅せられて彼自身の建築デザインに活かされたと伝えられている。もしも輪西の町を再開発する事が出来たなら「御幸町」「大沢町」を”御幸の森”大沢の森”に変えて背中合わせに在る、イタンキの海岸の断崖の美を街作りのデザインに活かして見たいと勝手に想像を巡らしている。(モンセラートの画像は「ウィキペディア」の”モンセラート”の項より参照されたし)
室蘭市に現在遺されている自然景観の保護と、更に過去の無秩序な都市化「スプロール」によって失われた室蘭市の自然の、復元を考えていく。豊かな自然環境の中で自然との共生を培うアメニティーの大切さを考える。

1277682118**「東室蘭駅・西口ものがたり」我が町タウングラフィティー

ワイルドチャイルド現在の「Hotelルートイン」の前は「パレス・ホテル」其の前は「TBSボーリング」場でした。其の時に看板に使われていたドデカイ!ボーリングのピンが吾らワイルドチャイルドの遊び場さ、昔の子供は何でも遊びの道具に変える天才さ!此の場所は東室蘭駅西口の直ぐ横に在りました。3人の元気娘はどんな大人になったかな!?現在は駅も町も様変わりビックリですね
少し昔の東室蘭駅西口/1969年(昭和44・12/28)東室蘭橋上駅として改築なる・・・懐かしいですね!!昔々の東室蘭駅西口、反対側の町「東町」へ行き来するのに手形(通行証)が必要な関所であった??手形(通行証)が無ければ危険を冒して線路を横断するか、又は入場券を購入して東室蘭駅構内を通過させて貰うしかなかった。入場券の料金は一駅分になっているから、歩いて駅を通過するだけなのに馬鹿らしくてとても不便を感じていた。其の為、駅袴線橋の自由通過を望む声が日に日に高まっていた。その時のエピソードとして西口町会の記念誌の記事によると(昭和36年)東室蘭駅袴線橋通行証20枚の配布を東室蘭駅より受ける(駅長の裁量)。各地区の町会の会員数に比例して配布を決定、町会の各区長さんのところに預けられ町の人が必要な時に借りて駅を通過した。(旧東室蘭駅西口の写真に写っている斉藤商店にて私も借りて駅を通らせて貰った思い出がある。)昭和40年4/28 四町会連絡協議会結成されて「東室蘭民衆駅早期実現促進運動を決議する」・・・・此の頃からの先輩の活動があってこそ現在の自由通過駅「わたれーる」の完成が現実のものになったと言えるかも知れない。
東室蘭駅西口に初めて町に美しい広場が誕生する!!町は喜ぶ人々で沸き返り広場の完成を記念するイベントで大変盛り上がった!!他愛無いが綺麗にカラーブロックで舗装されただけ、只、其れだけで町の人達が喜んで祝賀行事が催された。それでもグレー一色のアスファルト舗装の世界からインターロッキング舗装によって彩り溢れるペィヴメントに変わる事ができた。灰色の道を歩くのと彩りのあるカラー舗装の道を歩くのとでは、こんなに違うのかと改めて感じたと思う。そんな素敵な広場も日常は車の駐車場、綺麗な舗装面には吐き捨てられたチューインガムが黒い染みになって残されて居るのをみると情けない。今後、チュウインガムにも煙草税のように税金を特別賦課して街路清掃費用を賄うべきかも。2007年4/3東室蘭駅が遂にバリアフリーの自由通路となる、名前も公募して「わたれーる」!!

エスカレータやエレベータも設置され自転車でも、押しながら「わたれーる」

:あぁ〜「酷道R・37号線」悲惨(37)な事故に、みな・・・・・・〜(交通問題から街作りを考察)


(此処に座って絵を描く、豆画家達もきっと皆立派な大人に成長しているでしょう。)
1978年2月23日の朝、室蘭市港北町1丁目11番12号の国道37号線の横断歩道にて小さな女の子が幼稚園に向かう途中の横断歩道で大型ダンプにはねられ即死するという痛ましい事故が発生していた。しかしそんな劣悪な環境の中、何事も無かったかのように小学校の児童の写生会が行われていた。どうせならばもっと美しい街の風景を描かせてあげたいのにと思った、我々日本人は全く以って街造りは駄目だなァ〜と思いました。今から過去に遡ると32年も時が過ぎてしまった。もしあの時事故に遭遇していなければ、あの時亡くなった小さな女の子は、きっと今頃、結婚して子供を持つ母親になっていたかもしれない。無くなった、お子さんの実の母親であれば、そんな風に亡くなった子の成長したであろう、姿を追いかけて見るでしょう・・・でもどんなに廻りを驚かせた衝撃的で悲惨な事故でも、時が過ぎればみんな忘れてしまう。交通事故で亡くなった人の数はとっくに第二次世界大戦で戦死した人の数を上回っていると言われてからは久しい。そんな先の大戦になぞらえて交通戦争と呼ばれたりもするが、戦争で死んだ英雄の為には立派な石碑が建つが、交通戦争で死んだ後にはベニヤ板の看板しか建たず、それもやがて倒れ撤去されてしまう・・・・
もし安全都市を宣言するなら看板倒れにならないで欲しい。宣言に適った都市を築くとしたら、交通弱者の立場に立ち返って各コミュニティー地域には必ず一つの歩行者専用街区を備えるようにすべきなのと自転車専用レーンを連続的に導入されるべきでしょう
看板主義よりは実際に都市造りの設計デザインの段階からしっかり盛り込んで実施して欲しい。(1978年度版「室蘭市政ガイド」)にて、室蘭初の歩行者専用道路として誇らしげに紹介されていた、歩行者専用道路は高圧送電線の真下(寒)の空き地を利用したものですが、此れは此れで良かったと思う。また室蘭唯一の全日制の歩行者専用のショッピングモールだった中央町アーケード街は今は無くなってしまった(悲)。
本当の意味で事故で亡くなった人達の命を大切に思い無駄にしない為にも、二度とこんな不幸に出逢わなくって住むように都市の生活環境を深く洞察して安心・安全の都市環境を造って行かなければならないと思う、行政を担う者は特にである